とよたストーリー

暮らしの記憶

農村部の多い豊田市域では、軍事工場へ徴用されていた人々に対し、食糧増産の必要性から春季のみ一時的に帰農させる命令が発せられることもありました。しかし、多くの男性が徴兵された農村では、急激に人手不足に陥っていきました。 1939(昭和14)年以降食糧需給の悪化が加速し、米・塩・砂糖・味噌などの食料に配給制度が導入されました。戦争が長期化すると食糧事情はさらに悪化し、学校の校庭もイモ畑に転換されました。

 それでも、人手不足は深刻化していきました。1944年、学徒勤労令が公布され、猿投農学校(猿投農林高)や挙母中学校(豊田西高)の生徒はトヨタ自動車工業(株)挙母工場や愛知航空機伊保原工場に、挙母高等女学校(豊田東高)の生徒はトヨタ自動車工業(株)挙母工場・日南産業学園工場に動員されました。

市域では、空襲の激しくなった名古屋市などから多くの疎開児童を受け入れていましたが、駒場町では三河地震によって2名の疎開児童が亡くなりました。 また、1944年5月から猿投・藤岡・高岡地区に陸軍農耕勤務隊(第四農耕勤務隊)が駐屯しました。これは代用航空燃料の生産のためにサツマイモ・ジャガイモ・松根油などの農作物を作るためでした。 

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