とよたストーリー

樺太の国境標石

日本とロシアの間で、朝鮮半島及び中国東北部(満洲)の権益をめぐって、1904(明治37)年に勃発した日露戦争は、1905年に終戦を迎え、両国はポーツマス条約により、樺太北緯50度を国境とすることになりました。この翌年から現地で、両国共同による天測航法(※)を用いた国境画定作業が始まりました。この作業には、古橋家(稲武町)で教育を受けた大島健一(当時陸軍砲兵大佐)が、日本側の画定委員長として大きく関わりました。

1906年から2年をかけ、測量に基づいて北緯50度線上に、4個の国境標石と17基の中間石が設置されました。

これらの国境標石には花崗岩が使用されており、その産地は、岡崎産説と青森産説の2説があります。『東加茂郡下山村誌』には、標石の石材が花沢町から産出したと記載されているほか、岡崎出身の地理学者で、標石の設置にも関わった志賀重昂の著書『大役小志』(1909年)や、当時の『小樽新聞』(1906年9月21日付)でも、岡崎産とされています。また、青森県内には花崗岩の分布が限られることも、岡崎産(花沢石)の説を補強する要因です。

第2次世界大戦の敗戦後の混乱の中で、これら国境標石は撤去され、日本国内に現存するのは、根室市歴史と自然の資料館が収蔵し、今回展示している「天第二号」のみとなっています。

※天測航法とは:空に見える天体と地平線との間の確度を測定して現在位置を求める測量技法のことです。

樺太の国境標石

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